ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅵ

楽曲解説

三船文彰
8つのピアノ小品」作品76
「2つのラプソディ」作品79

ブラームスが「パガニーニ変奏曲 作品35」(1863年、30歳)、「ワルツ集 作品39」(1865年)の約15年後の1878年(45歳)に書いたピアノの作品。ブラームスは、38歳でウィ—ンに定住、39歳でウィ—ン楽友協会の監督となるなど、社会的にも成功を収め、36歳の時に出版した「ハンガリー舞曲集」の大ヒットで経済的にも安定し、自他とも認める一人の自由な作曲家として、冬は演奏旅行、夏は創作に邁進する充実な時期に入っていた。その2年前の1876年に、「交響曲第1番」が完成し、一つの大きな重荷を下したことはブラームスの作風に少なからず変化を与えたようだ。すなわち、力の入った形式的や構成的なものから、感じるままの心の内面と抒情的な美しさを自由に表現するものに移ったことだ。特に、1877年から79年の3年間の夏に滞在した、ユーゴに近いヴェルダ湖畔の素晴らしい湖と森と山に恵まれたペルチャッハで生まれた「交響曲第2番 作品73」(1877年)、1878年のピアノのための「8つのピアノ小品 作品76」と「ヴァイオリン協奏曲 作品77」、そして1879年の「ヴァイオリン・ソナタ第1番 作品78」と、ピアノのための「2つのラプソディ 作品79」の一連の傑作にその共通した雰囲気 — 円熟した書法の中にやや哀愁を帯びた、気品のある抒情性と熱い情熱 — を感じることができる。

「8つのピアノ小品 作品76」は4曲からなる2冊の曲集として出版された。中はさらに晩年の一連の小品にも用いられている曲の名称である「インテルメッツォ」と「カプリッチョ」の4曲から成る。「インテルメッツォ(間奏曲)」はシューマンがピアノ曲において、ロマン的、幻想的でいくらか沈みがちなものに名付けたのが最初で、明確な言葉で曲の感情を説明できない場合に、19世紀のドイツ・ロマン派の作曲家たちが好んでこのタイトルを使った。それに対して、「カプリッチョ(奇想曲)」は「インテルメッツォ」よりもやや活動的、情熱的、陽気な気分を表す時に用いた。もともと標題音楽には反対のブラームスが、曲にタイトルを付けることはあり得ないことと思われるが、恐らく出版社の要求でやむなくこれらの曲に無難なタイトルを付けたのではないか。1878年にクララ・シューマンとシューマン全集の再構成や編纂をしていたこと、ショパンの全集への関わり、親友の外科医ビルロードとのイタリア旅行、などがその中のかなりの曲に影響を与えている。

第1曲は、1877年7月6日にクララ・シューマンよりブラームスの手紙に、「1871年9月にお送り下さった嬰ヘ短調の作品がどんなに大きな悦びを与えてくれたか。恐ろしく難しいのですが、実にすばらしく、心からの憂愁に満ちて、弾いていると、私の心はある時は明るく、また悲しくなります。」とあるように、その他の7曲よりもかなり早く作られた。曲に「不安におののく」の指示が記されている。

第2曲は、恐らくブラームスのピアノ小品の中でも一番広く知られたものである。

1879年に、同じくペルチャッハで作曲された「2つのラプソディ 作品79」で、ブラームスはピアノ曲の一つの頂点を極めた。すなわち、均整のとれた構成とエネルギーに満ちた大きいスケール、劇的で豊かな曲想と音色、幻想的な情熱など、ピアノ一台で表現し得るすべての世界がこの2曲に凝縮している。

「7つの幻想曲」 作品116
「3つの間奏曲」 作品117
「6つのピアノ小品」 作品118
「4つのピアノ小品」 作品119

作品116から119の20曲はすべて1892年(59歳)頃に作曲したとされている。その数年前からブラームスは人生のピークを迎えていた。89年にはオーストリア皇帝からレオポルト勲章が授与され、若い時自分に冷淡だった郷里のハンブルク市からは名誉市民の称号が贈られ、社会的には栄光の頂点にあったし、すでに85年から88年にかけて、「交響曲第4番」、「チェロ・ソナタ第2番」、「ヴァイオリン・ソナタ第2、3番」、「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」の傑作群を書き上げていたが、90年に「弦楽五重奏曲第2番」の完成後、急に創作力の衰えを自覚し、作曲に区切りをつけると決心、身辺整理もし、91年には遺書まで作成した。しかしその年の3月にクラリネット奏者のミュールフェルトの演奏に感激、新鮮な創作力が押し寄せるのを感じた。その年に生まれたのが「クラリネット三重奏曲」と「クラリネット五重奏曲」の2名作だ。

そして92年の夏、避暑の地として亡くなる前の年(96年)まで滞在したお気入りのイシュルで、20曲のピアノ小品集(作品116〜119)が作られた。この年の前半に一番親しい理解者のエリザベート・フォン・ヘルツォゲンベルク(彼女に作品79の「2つのラプソディ」が献呈されている)と姉エリーゼが相次いで死去。独身のブラームスには、人生の暮色深しという孤独感がいよいよさらに深まってきた。一方では、91年にシューマンの二短調の交響曲の再版をめぐって、クララ・シューマン(すでに72歳)との間に生じた友情の不和は、ブラームスが和解に歩み寄ったことで、この年に二人がもとの親しい関係を取り戻し、二人の人生の夕暮れに心静かな温かい落日が差してきたのだった。

甦った作曲の霊感に、この年のもろもろの人間関係の変化が大きい刺激となり、これらの珠玉のピアノ曲集の誕生のきっかけとなったと考えられる。これらの曲に共通しているのは、ブラームスが人生において到達した、澄み切った諦観ともいうべき心境の吐露であり、音符は簡潔、精巧となり、技術的にはさらに洗練の度を増している。内面の感情の追求が、詩や文学と結びついたロマン派の音楽が辿り着いた完璧な終着点となった。

「7つの幻想曲 作品116」は1892年の初めにはクララへの手紙の中で、ブラームスが「小さい続きの小品を送った」と触れていることから見て、何曲かは前から書きためていたと考えられる。1〜3曲をパートⅠ、4〜7曲をパートⅡに区分けされた理由は定かではないが、「幻想曲」というタイトルにしたこと、第4曲にブラームスが「ノクターン」と書き記しているところ、いくつかの音型が近似しているなど、ショパンの音楽との関連に想像が膨らむ。

「3つの間奏曲 作品117」の第1曲は詩人ヘルダーの民俗歌曲の中の「不幸な母親の子守歌」から二行が引用されている。「やさしく眠れ、わが児、眠れ、やさしく美しく!私はお前が泣くのを見るのがたまらない」。ブラームスはこの曲を「自分の悲しみの子守歌」と述べた。

クララ・シューマンは1892年の10月にこの曲集の存在を知り、最期の年まで折にふれて弾いていたという。

「6つのピアノ小品 作品118」、「4つのピアノ小品 作品119」の10曲はまさにブラームスが自分の人生を回顧するかの如く、実に豊かで美しく、起承転結をも考え抜いた構成を持っている。この頃から急に老いの衰えが著しくなったクララに、さらに頻繁に親密な挨拶を送り、できるだけ自分の作品を誰よりも早くクララに知らせるよう気遣っていたブラームスが、クララに作品119を「あなたとわたしの小品」と呼んだこと、ブラームスが1895年の10月クララの家を久しぶりに訪問し、一泊した翌朝に、クララが作品118の第5曲の「ロマンス」をブラームスに弾いて聴かせた(このあと、クララが帰らぬ人となり、これがブラームスが聴いたクララの最後の演奏となった)ことから推測して、かなりの数の曲はクララに弾いてもらうことを考えて作ったと思われる。ピアノによって、クララ・シューマンと出会い、ピアノでクララと人生の大半をともにしてきたブラームスが、クララとの永久の思い出をこれらのピアノの作品に定着させたと考えるのは飛躍し過ぎだろうか。

特筆すべきは作品119の第1曲で、ブラームスは1893年5月7日のクララ・シューマンの74歳の誕生日にこの曲を贈り、「一音ずつを置いていくように演奏すること。どの音も孤独感を引き出すように」と注釈を付けている。それに対して、クララ・シューマンが「不協和に満ちた、極めて悲しげで甘い小品。灰色の真珠のように曇っているが、非常に貴重である」と感想を書いた。

しかし作品119の第4曲に、同じタイトルを持つ作品79以上に超絶技巧を要する「ラプソディ」を置いたことで、ブラームスは最高度の職人にして偉大な芸術家としての矜持を見せた — 枯れて感傷的になっている老境の自分でも、作ろうと思えば、まだまだ乗り越え難い高い山は築けるのだ、と。

ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅵ

─ブラームス ピアノ曲集
LIU-1010/11(国内盤CD2枚組)税込定価¥4320
録音
2009年6月12日~14日 劉生容記念館
使用ピアノ
劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
演奏
ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
「知られざる”ブラームス・ワールド”への誘い!」

ラスト・コンサートから4年、84歳の伝説の巨匠ルース・スレンチェンスカが自らのピアニズムの集大成として描き出した、優しくも美しい幽玄なる未知のブラームスの内面世界!

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