消え行く伝統と語り継がれる伝説

山角浩之 (出版社編集主幹、批評家)

2005年1月31日夜、ヨーロッパの偉大なピアノ奏法の伝統を受け継ぐ最後の巨匠が、正に最後のステージを降りようとしていた。至高のピアニスト、ルース・スレンチェンスカである。当夜、岡山シンフォニーホールを埋め尽くしていた満員の聴衆は総立ちで、名残を惜しむように、いつまでも喝采を贈っていた。

数々の伝説に包まれたピアニスト、ルース・スレンチェンスカの最後の舞台は、前日に行なわれた三大協奏曲 コンサートと併せて2日連続で催された。

この2枚組みのCD(ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅳ)は、31日夜に行われたラスト・リサイタルのライブ・レコードリングである。

彼女の心温まる人柄と、一つ一つの温かく美しい音色から紡ぎ出される演奏は、何度聴いても決して飽きることの無い、心温まる音楽である。

筆者は、30年に渡り、「ニューグローヴ世界音楽大事典」の刊行や、プロコーフィエフ、スクリャービン、サン・サーンスなど名作曲家自身による演奏復刻、往年の巨匠の録音や撮影など、多くの出版や評論活動に携わってきた。そのような過程で、若手を含む多くのピアニストの演奏を聴く機会にも恵まれた。残念な事だが、心を揺さぶられるような経験は甚だ少ない。強く、大きく、正確に、上手に弾いて上手に聴かせるという今風の演奏スタイルは、感動とは程遠い次元にある。しかし、ピアニストはあくまで音楽家であって、決してタイピストではない…

そのような中で、ルース・スレンチェンスカとの出会いは衝撃的であった。何処か遠くへ忘れ去られてしまった大切なものを、何か思い出させてくれるようで、思わず心が震えた。

彼女の演奏を何度聴いても信じられない思いだが、スレンチェンスカ女史は80才である。しかも、身長は150センチに満たない。手も小さく、7度の鍵盤に指が届かなかったと言うスクリャービンより小さいのではなかろうか。スクリャービンの演奏を聴くと、パッセージによっては、時として手の小ささを露呈している。しかし、スレンチェンスカ女史の場合、手の小ささを全く感じさせない。それどころか、一音たりともおろそかにしない美しい響きは筆舌に尽くしがたい。

筆者は、スレンチェンスカ女史の演奏を間近に見る機会に多々恵まれたが、素晴らしい指使いであった。時に魔術を見るような思いがしたものである。併せて、離鍵の美しさがある。鍵盤から指を離すと鍵盤が自然に戻るのではなく、あたかも指の意志に従って鍵盤が戻っているかのようであった。鍵盤から指を上げる離鍵の繊細さと美しさは絶品である。あの離鍵の美しさがあってこそ、素晴らしいタッチが生まれ、彼女特有の質感を持つ音色と、無限に続くような強靭で艶やかな揺らめきのあるピアニッシモを得る事が出来たのであろう。このように絶妙なタッチは、一朝一夕に会得できるものではない。日々、たゆまざる研鑽の積み重ねを繰り返すしかないのであろう。

さらに、体のポジションが低いということがある。最近の多くのピアニストに見られるように、鍵盤の上に覆い被さるようなポジションとは全く異なる。スレンチェンスカ女史が小柄だからという事では決して無い。この事は椅子を低い位置に保っている事からも分かる。グレン・グールドも低い位置を保つために専用の椅子を持ち歩いていたという。筆者は、往年の巨匠達の撮影、録音に数多く立ち会ってきたが、彼らは総じて低めのポジションを保っていた。ここから、微妙なタッチが得られるのだという。しかし、その為には非常に柔軟で強靭な腕と手首、それらを支えるしっかりした体躯が要求される。そして何より完璧な脱力。

以下は、時として、”ET”と愛称される、人間離れをしたスレンチェンスカ女史の超人振りの一端である。

ルース・スレンチェンスカの最後の公演は、1月30日と31日の2日間にわたって行われた。30日のプログラムは三大協奏曲コンサートと銘打たれ、リスト、ショパン、チャイコーフスキイのピアノ・コンチェルトを一挙に演奏しようというものである。多くの音楽ファンならご承知だと思うが、このようなプログラムはとても正気の沙汰とは思えない。過去、多くの巨匠達が引退公演を行ってきたが、そのプログラムのほとんどは、小品を中心に組まれている。それでも、時として目を覆いたくなるような場面に出くわすことも珍しくない。しかし、スレンチェンスカ女史は、リハーサルをこなした後、圧倒的な名演で聴衆を魅了した。さらに聴衆が立ち去った後のホールで、オーケストラと共に1時間余りの録音、その後、ホールのロビーで待つ100人以上のファンの求めるサインに、最後の一人まで握手を添えて答えていた。その間、ただの一度も笑みを絶やす事も無く。翌31日は早朝より練習。そしてコンサートホールで録音。その後、同ホールでリハーサルを行った後、いよいよ最後のリサイタル。この日のプログラムも、ショパンのスケルツォ全4曲とバラード全4曲とを一挙に演奏し、直前にさらにプロコーフィエフの「シンデレラ」から4曲を追加するというとてつもないものであった。くどいようだが、スレンチェンスカ女史は80才である。勿論、強靭な精神力もあるだろうが、武道の達人ですら及ばない程の、完璧な脱力があって初めてなし得ることである。スレンチェンスカ女史は、指や腕などを一度も痛めたことが無いという。その事からも、完璧な脱力の妙をうかがえる。

さらに、今回の公演を聴いて改めて意を新たにしたことがある。彼女の演奏は、作品との距離感が抜群だということである。このように絶妙な距離感は、僅かにフリッツ・クライスラーの演奏に認められる位であろう。決して作品にのめり込むことはなく、過度の感情表現を避けている。かと言って、作品を突き放している訳でもない。そこから醸し出される演奏には如何なる技巧上の誇示もない。確たる知識と、重ねられた探求による揺るぎの無い解釈。限りなく深く大きなフレーズと生き生きとして大胆なリズム。鍛錬に鍛錬を重ねられたすばやい指の動き、律動的な力強さ、非常に明快な各声部。正にピアニズムの極致であり、古典派からロマン派そして近・現代に至る正統派のピアニストであるこに他ならない。演奏から奏でられている表情は、音楽を心から愛してやまない心と、滲み出る素晴らしい人柄そのものを表わしている。

ルース・スレンチェンスカの芸術を世に問い、このCDのレーベル「Liu MAER」の設立者で、今公演の主催者でもある三船文彰氏。この度の文化貢献が認められ、岡山県芸術文化功労賞を授与された。慶賀の至りである。

ルース・スレンチェンスカの芸術Ⅳ

20世紀最後の巨匠 前人未踏のショパン
LIU-1007/08(国内盤CD2枚組)税込定価¥4320
録音
2005年1月31日 岡山シンフォニー・ホール(ライブ録音)
使用ピアノ
劉生容記念館蔵 1926年製スタインウェイ
演奏
ルース・スレンチェンスカ(ピアノ)
「喝采は伝説となった!」

80歳の超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカが、自らの76年の演奏人生を賭けた最後のコンサート。
「最善にして最後」・・・
ラフマニノフ、コルトー、ホフマン、シュナーベルの教えを受け継ぐ唯一のピアニスト、20世紀最後 の巨匠が後世に残したピアノ芸術の金字塔!

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