2005年1月
超人ピアニスト ルース・スレンチェンスカ最後の挑戦
ラスト・ショパン・リサイタル

English
三船文彰

この2枚のCDが伝説的なピアニスト、ルース・スレンチェンスカ(※本当は「伝説的」でもなんでもなく、ルース・スレンチェンスカはずっとピンピンしていたし、ただ彼女の取り組みを私達が知らなかっただけのことだが…)の最後のライブ・レコーディングとなってしまった。

ルース・スレンチェンスカの辿ってきた尋常ではない、波瀾万丈のこれまでの人生を知る者は、彼女の演奏生涯の締めくくりの鮮やかさとすごさに心を打たれるに違いない。

しかし、すべてが終った今となって、私はルース・スレンチェンスカの人生の起承転結の結びの段階のおそらく一番重要な時期に起こった、いろいろな不思議なエピソードに立ち会ったことによって、さらにその中を貫く一筋の力を見出したような気がする。−最高のピアニストが埋没することなく、彼女の最善の芸術が後世に残るよう働いた力を!

舞台裏の覗き窓からルース・スレンチェンスカが人生最後のコンサートの最後の曲、ショパンのバラード第4番を演奏するのを見守りながら、この稀有な女性の一生が走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。

音に対する早熟な反応と3歳の時に感じたピアノへの運命的な愛情がもたらした結果が、異常な性格を持ったヴァイオリニストである父親の虐待とも言える、スパルタ教育の日々だった。
1931年、6歳でベルリン・デビュー

1931年、6歳でベルリン・デビュー
4歳でリサイタルを開き、「モーツァルト以来最も輝かしい神童」と称賛され、ホフマン、コルトー、シュナーベル、ペトリ、ラフマニノフなどの巨匠に認められ、教えを受けたが、自分の心の中では、所詮すべては一日9時間の、父親の暴力を受けながらの成果に過ぎないと思い続けた。

破局はついに15歳の時にやってくる。「機械的」、「未熟」という「的を得た」新聞の酷評が、しかし「神童」という耐えがたい仮面を壊す手助けをした。同時に、絶対的な暴君として自分を支配続けてきた父親に「No!」と言えるきっかけにもなった。

一家の稼ぎ頭から一挙に役立たずの負け犬に転落。ずっと平凡な普通の家庭の娘として暮らしたかったのに、ピアノを愛してしまったばかりに、子供らしい日常を取り上げられてしまった。家族や外の人たちとの間には異星人ほどの違和感を感じた。

茫然自失の2年ののち、自分の力でカリフォルニア大学の入試に合格(「おまえが受かるはずがない!」と父親が罵った)。自分の力で生きよう、他の同じ年代の若者と同じように青春を送ろうと努力した。

あらゆるアルバイトもした‐ウェイトレス、ファッション雑誌のモデル(「ただしスモール・サイズ専門のね!」と身長147cmのルース先生が付け加えた)、ベビーシッター(それも「ピアノを持っている家だけ!」を選んで働いた)などなど。ピアノを忘れようと努めた。

しかし、今度はピアノの方から彼女に働きかけてきた。大学の音楽科の教授のアシスタントとして、演奏のアルバイト(教授が授業中にリクエストしたあらゆる曲のどの部分でも譜面なしに弾けた!)をしたり、修道院の経営する音楽学校で教師として生きがいを感じていた矢先に、再び見出された。

ステージにカムバックするのに、それでもまだかなりの時間を要した。それくらい、15歳の時の新聞の酷評が与えた心のダメージが大きかった。
バッハ・フェスティバルでの名演

バッハ・フェスティバルでの名演がカムバックのきっかけとなった
バッハ・フェスティバルに登場した10年ぶりの演奏が大きな反響を呼び、アルトゥール・ルービンシュタインやアーサー・フィードラーなどの大先輩の暖かい励ましもあって、本格的に演奏家として、また多忙な生活を送ることとなるが、まだ自分の音楽の存在意義が見出せないでいた。

決定的な転機が第2次世界大戦のあとのヨーロッパ演奏旅行の時に訪れた。まだ瓦礫の山の廃墟と化していたケルンの町の崩れかかったホールでリハーサルしていた時に、抗し難い力の前ではまったく無意味に思える自分のピアノの音でも、心身ともに疲れ、傷ついた人々の心に何かの力になれるのではないかと考えた。その途端、指から流れ出た音が、これまで感じたことのないような自由で美しい愛に満ちたものとなった。

悲しみに打ちひしがれた聴衆が粗末な椅子から立ち上がって拍手してくれたのを見て、芸術家としての使命の自覚に目覚めた。自分のピアノの音によって、聴衆との間に深い繋がりが出来たのを感じた。

ピアノは自分の人生の中で一番大事な友人で、かつてないくらい自分と一心同体のものであり、ピアノとなら、望まれれば、いつでもその人にエネルギーを与えることができることに気がついた。そして、ピアノさえあれば、未来は必ず自分の手で切り開いて行けると確信した。

それから10数年、まさに破竹の勢い。最大限の賛辞を捧げられ、世界中を演奏して回った‐‐ロシアと日本以外。いくらでも演奏会をこなす力があるように思えた。しかし、38歳の時、過労で胃潰瘍となり、「一年間休むか、死か」と医者に宣告された。
人生2回目の演奏中止。
そのあと、殺人的な興行としての演奏活動に見切りをつけて、サウス・イリノイ大学で教鞭を取る道を選んだ。

40代半ばに、7歳年下のジェームズ・カー教授にプロポーズされ、ついに人生の中で一番縁遠かった幸せな家庭生活を手に入れた。

ハンサムでスポーツマンでやさしく、知的な旦那様との夢のような生活が30年も続いた。「ピアニストや教授としての前に、私はいい奥さんになろうと努力した。」「三食きちっとおいしい食事を作った。」「毎日、主人に朝食を食べさせて、学校に送り出してから、自分の仕度をして学校に行ったものよ。」「あの人くらい素敵な男性を見たことがない!」ご主人様の話になると、決まってルース先生はビッグ・スマイルになった。
1967年 結婚の日

1967年 結婚の日。両脇が新郎新婦の母親
サウス・イリノイ大学で世界中から集まってきた若いピアニストを育て、慕われた。そして膨大なレパートリーに学問的な裏付けを積み重ね、さらに深く掘り下げていった。これぞ、という自分が決めた演奏会は続けていた。

74歳の時、また転機が訪れた。病で倒れた主人の看病と死別。ピアノに触れる時間がなかった。そしてお葬式のあとも、ピアノに触れるのをやめてしまった。 先生の大変な落ち込みようを心配した台湾の教え子が、台北に誘った。台湾の大学で客員教授として教えながら、みんなで先生の面倒を見て差し上げましょう、と。

完璧主義の先生は、学生のレッスンの前には必ず数時間、指のウォーミングアップをして宿舎を出た。指の力が少しずつ戻った。その時、ピアノの音がこれまでの自分の音とまったく違う音になったことに気がついた。そして、演奏会の依頼が口コミでまたたく間に増えていった。
ルース・スレンチェンスカは台湾の人々の敬愛するピアニストとなった。
その5ヶ月後の2003年1月に、台北で私は先生の弾く一曲のショパンのエチュードに打たれることによって、日本での初演奏が実現した。

いつの間にか、ルース・スレンチェンスカの人生の起承転結が結びのかどを回っていた。
そのあと、日本の岡山で起こった一連の展開は「ルース・スレンチェンスカの芸術(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ)」のCDの解説書に記述した通りだが、桜満開の2003年4月、紅葉の11月、酷暑の2004年7月、そして酷寒の2005年1月と、計らずも ちょうど日本の春夏秋冬のそれぞれの真っ盛りの時に4回も日本を訪れたことになる。

このことはルース先生がラスト・コンサートのプログラムを組み立てる上で一つのきっかけになったと思う。

ショパンが人生の(わずか39歳の!)それぞれの時期に作ったちょうど4曲ずつのスケルツォとバラードは、ショパンの人生の春夏秋冬を表していると考えた時、ルース・スレンチェンスカが自分の人生をそれらの曲に重ね合わせ、何かのメッセージを残したいと考えたとしても不思議ではない。何よりも、彼女の体はショパンと同じポーランドの血が流れているのだから!(なお、プロコフィエフのバレエ組曲「シンデレラ」から「春の精」「夏の精」「秋の精」「冬の精」の4曲は演奏会の一ヶ月前に追加されたプログラムで、これで彼女が日本の四季を意識して選曲していたことが、さらに明確になった。)

ルース・スレンチェンスカはこの2年間で延べ50日以上岡山に滞在したことになったが、いつも口にしたのは「ここは天国だ!」という言葉だった。

先生の音楽とお人柄に傾倒し、巨匠に失礼のないようにだけ心がけて、裏方を務めてきた私たち家族にはいつも誉めすぎのように聞こえた。
岡山の後楽園での散策

岡山の後楽園での散策を無上の楽しみとしていた
確かに岡山の四季はきれいで、食べ物も豊かだ。滞在中は出来るだけ名所旧跡とおいしい店にお連れし、いつも案内人冥利に尽きるくらい、「すばらしい」、「おいしい」と喜んでくれた。

そして、外界と隔絶した私の小さいホール(劉生容記念館)で、父の絵に囲まれた中で弘中俊也氏が付きっきりで丹精込めて調整した、ルース先生が「私の友だち」と呼ぶ1926年製のスタインウェイ・ピアノと心行くまで一日中対話を交わすのが一番の楽しみだったようだ。

もちろん、2年の間、演奏会やCDを通して、少しずつ筋金入りのファンが日本に増えて、毎回先生の音楽を心待ちにしてくれていたのは、先生にとってさらに心弾むことだったのは言うまでもない。

80歳のお祝いコンサートを企画したばかりに、それが先生のラスト・コンサートとなってしまったことに、最初私はかなり困惑した。この2年の間、ルース先生はそれこそ日々進化を遂げ、パワーアップしてきたので、いつの間にか私は先生が小柄な80歳の老婦人であることを忘れていたのだ。

 「80歳の老人にとって毎日8時間練習し続けるのは大変なことなのよ。」「最善の状態で最後にしたい!」ルース先生の決心は固かった。
毎朝9時劉生容記念館で練習開始

毎朝9時劉生容記念館で練習を開始した
そして、少なくとも現時点で、先生の試みを支えるためのすべてが揃っている、この岡山の地がラスト・コンサートを行なう場所に選ばれたのだと思う。 2005年1月20日、台北で自分の80歳を祝う2つの盛大なコンサートを終えて、ルース・スレンチェンスカが岡山に到着した。

今回もスケジュールがいつの間にか予定よりかなりふえていた。わずか1週間の間に、1月30日の三大協奏曲コンサート(リスト:第1番、ショパン:第2番、チャイコフスキー:第1番のピアノ協奏曲)のための3回のオーケストラとのリハーサル、岡山シンフォニーホールでの2日連続の協奏曲とリサイタルのコンサート、私のホールでの2回のリサイタル、その間を縫って指揮者の迫昭嘉氏とのリハーサル、6回のレコーディング、郊外の小学校でのスクール・コンサート、(人生最初で最後の!)急遽決まった1週間にわたるドキュメンタリーを作製するためのテレビ取材撮影…。

真冬の寒さと殺人的なスケジュールでルース先生は体調を維持することができるのか、そして到着の翌日の練習中に、弦が一本切れたわが家の79歳のピアノが最後の最後まで持ちこたえ、ルース先生との有終の美を飾ることができるのか?祈るような気持ちで私は「二人の老婦人(two old lady)」のコンディションを見守っていた。
岡山市内の小学校でコンサート

2005年1月28日 岡山市内の小学校でコンサート。
アンコールにショパンの「黒鍵」を2回も弾くなど、子供たちと一期一会の心の交流。
人生最後のパフォーマンスはどれほどのプレッシャーになるものか、ましてやこれほどのエピソードとキャリアを持ち、称賛され続けてきた伝説的なピアニストが、自ら尋常ではないハードなプログラムを立てて臨むラスト・コンサートの圧力は想像を絶するものであろう。

毎日夜の11時前にホテルの部屋に戻り、洗濯をし、髪を洗い(「そのぐらいのことは自分でできる!」とルース先生は家内が世話を焼くのをよしとしなかった)、朝6時半には起床、部屋を片付け、新聞を読み、手紙を書き、8時45分にはロビーで私たちの迎えを持つ、という規則正しい生活をルース先生は続けた。そしてどの瞬間もルース先生は自分を取り巻くすべての物事を正しく見つめ、真心込めて正しく反応しているように感じた−−朝早くホールの外の草むらの中に咲いた一輪のひな菊の白い花を見つけてうれしい歓声をあげたとき。ある午後、レコーディングを終え、夜のコンサートまでの僅かな時間に後楽園へ散歩に出かけ、園内の茶店で渡された英語版の「桃太郎」の童話を「面白い」と言って、小学校の先生よろしく、一気に最後まで私たちに読み聞かせてくれたとき。誰に対しても丁重に、簡潔で心に響く言葉で返事するとき。もちろんピアノの向こうから響いてくる音に耳を傾け、一音一音正しく練習しているとき…−ルース・スレンチェンスカは一分一秒とも正しく生きようとしているように思えた。
朝6時半起床

朝6時半起床、新聞を読み、手紙を書くのが日課だった。
そういう生きる姿勢の積み重ねが、40代でスポットライトを浴びるのを自ら絶ってもなおかつ進化を遂げられた一番の秘密だと私は思った。そして、このラスト・コンサートの試みがその集大成だったのだ。
三味線に初挑戦

三味線に初挑戦。2005年2月東京にて
3歳の時からピアノへの絶対的な愛によって自分を鍛え、ピアノとともにあらゆる困難を乗り越え、いまや自分のピアノの音によって、人々に生きる力を与える神のような境地に辿りついた希有なピアニスト、ルース・スレンチェンスカ!ショパンのバラード第4番の最後の音がついに岡山シンフォニーホールに響き渡った。立ち上がって鳴り止まない拍手を送っていた聴衆に、ルース・スレンチェンスカは2曲のアンコールで答えた。

1曲目のショパンの「ワルツ第14番」は私の弟の2歳の息子の顔を浮かべながら弾き、そして2曲目のリストの「バガニーニ大練習曲」第4曲(アルペジョ)を弾き終え、固唾を飲んで舞台の袖で控えていた私の手を取って、「This isfor you!」とおっしゃった。弾き通すだけでも2時間かかる大変なプログラムの最後の最後に、リストの難曲を披露したルース先生の真意は恐らく「私はまだまだ弾けるわよ!ご心配なく!」という聴衆と私への先生一流の茶目っ気たっぷりの彼女への心配に対する感謝のメッセージだったと思う。
人生最後のステージ

人生最後のステージ
もう一人の「老婦人」はどうだったかですって? 幸いにも、79歳のわが家のスタインウェイピアノはもう一本切れそうな弦は切れずに最後までルース先生と舞台に立ち、録音、録画も完璧にこなし、岡山にはめずらしい大雪にも降られずに、岡山シンフォニーホールからわが家に無事帰還した。

そして、その2日後に、もう一本の弦が切れたのだ。

すべての演奏が終った翌日も、いつものように、ルース・スレンチェンスカは朝の9時きっかりにピアノの前に座って練習を始めた。彼女は公開演奏をやめたのであって、ピアノを弾くのをやめたわけではなかったのだ。彼女にとって最高の友達はピアノであり、ピアノもずっと彼女の友達であり続けるのであろう。

実は、物語はここで終ったわけではなく、そのあとも(もちろんこれまでも)いろんな信じがたいような奇跡やエピソードが起こったが、いつかお伝えできる日がくるまで、ひとまずここで筆を置く。
スレンチェンスカと三船兄弟

スレンチェンスカと兄の三船文彰(右)、弟の隆三郎(左)
「二人のドクター・ミフネの理解と協力で、私は芸術家としての使命を全うすることが出来ました」

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The Last Challenge of Mrs. Ruth Slenczynska, an Incredible Pianist, in January 2005 − The Last Chopin Recital
By Bunsho Mifune

These two CDs have become the last live recordings of Mrs. Ruth Slenczynska, the legendary pianist. (Frankly speaking, Mrs. Ruth Slenczynska has been conspicuous for her remarkable performance. It is only we did not know her performing engagement … )

Those who know her unusual and amazingly eventful life must be moved by her greatness that crowns her lifelong career.

By now everything ended. I have been present at her variously mysterious episodes when her life came to a closing chapter. It is probably the most significant period of Mrs. Ruth Slenczynska's life. And it seems to me that I have found out a ray of strength through her life − the strength that made her best artistic apotheosis goes down to posterity, for the great pianist not being entombed!

I was on the backstage watching Mrs. Ruth Slenczynska's last performance, Ballade No. 4 by Fre´de´ric Chopin, from an observation window. This incredible lady − her whole life was flashing before me in those vital minutes.

She responded to the sound precociously. And her falling in love with the piano at the age of three decided her destiny. Her childhood days resulted in Spartan education or rather mistreatment by her own father, who was a violinist with abnormal character.

"The most remarkable child prodigy since Mozart." − She was praised when a recital was held at the age of four. Josef Hofmann, Alfred Cortot, Artur Schnabel, Egon Petri and S. Rachmaninov: These great pianist acknowledged her and she has learned under those masters. On the other hand, however, she felt by herself in this way, "After all, it is only the result of her being subjected to physical violence by her father for nine hours a day."

Soon a breakup of the situation came when she was fifteen years old. 'Mechanical' or 'immature' − such pertinent bitter criticism by newspapers in turn helped her tearing away the unbearable mask of prodigy. At the same time, it also gave her a chance to say No! definitely to her father, who had controlled her as an absolute tyrant.

She met a speedy downfall from the primary breadwinner of the family to a loser. Even though she has been always wishing to be a daughter in an ordinary family, as a matter of fact she was taken away ordinaries of childhood due to her love for the piano. Therefore, like an alien, she sensed an extreme distance in her relationship with her family members or people outside.

She has been shocked out of her wits for two years. Then she passed an entrance examination of University of California on her own. (Her father lashed her with his tongue, "You cannot succeed in the examination!") She did her very best to live her youth on her own, just like other youth in the same generation.

She took on various kind of part-time job; as a waitress, a model for a fashion magazine ("But only of small size!" added Mrs. Slenczynska who is 147 cm tall.) or as a baby-sitter (She especially chose at those who have a piano!) She tried to forget the piano.

In course of time, however, the piano called her again. As an assistant of a professor in piano lessons she worked part-time (because she could play any pieces the professor requested without the musical score!) She could also lead a meaningful life as a teacher in a music academy run by monastery. Just as she was about to make her life worth living, she was recruited again.

It still took considerable time for her to come back on the stage. Bitter criticism by newspapers at the age of fifteen inflicted great damage on her heart.

Bach Festival was the first performance that she has done in ten years, and it drew enthusiastic response from the general public. Great masters such as Arthur Rubinstein and Arthur Fiedler also gave her support and warm encouragement. Grace to those warm wishes, she lead a very busy life again as a professional pianist. Yet she could not find out the significance of her existence in the world of musical art.

Her recital performance in Europe after the Second World War became an important milestone in her career. The town of Ko¨ln was reduced to a heap of debris. Her rehearsal was exercised in a sliding hall there. Such ideas came into her mind, "My piano tunes could encourage those who are physically and emotionally exhausted and wounded, though it seems to me meaningless in front of an act of God." At that moment she was aware of her performance freely filled with beautiful love she had never experienced before.

Having received warm applause by audiences, who were deeply overwhelmed by grief, standing up from shabby chairs, she was inspired by the mission of an artist. In fact her own piano performance has enabled to strengthen a deep connection with audiences.

Piano is the most precious friend in my life. Now I am practically inseparable with it. Whenever I become one flesh with the piano, newly revitalized impetus can be given. This realization confirmed her in the view that she can surely carve out her own future as long as together with the piano.

In the next decade she was in full career. She was showered with superlatives along with her performance all over the world − except in Russia and Japan. Her energy looked like infinite. When she was thirty-eight years old, however, she got a stomach ulcer from overwork. The doctor declared, "Take some rest for one year, or you shall die."

All of her performance were cancelled the second time in her life.

Later she gave up all the performance activities that meant her for murderous schedule. She rather chose to teach at Southern Illinois University.

Dr. James Kerr, who is seven years younger than her, proposed to her when she was in the middle of forties. At last it has brought her happiness of family life, which had been very far from her life.

Her Utopian home life has lasted for thirty years, attending her husband who is a handsome and intelligent sportsman. "I rather tried my best to be a good wife than being a pianist or a professor." "I cooked all the three meals tastefully." "Every morning I had my husband first finished his breakfast and sent him to the University. Next, I got ready to leave for school." "I have never seen such a man of irreproachably wonderful character as him!" A smile always beams over Mrs. Slenczynska's countenance when the topic of conversation is on her beloved husband.

There have gathered young pianists from all over the world at Southern Illinois University. Having raised them up, professor Slenczynska has been adored by her students. Her enormous repertoire has been studied further and supported by academic references. The schedule of recitals and concerts she made up her mind was carried out.

Another turning point has come when she was seventy-four years old. Having taken care of her sick spouse, he passed away. There was no time for her to play on the piano. And she stopped playing on it after the funeral of her husband.

Taiwanese students of Mrs. Slenczynska were deeply concerned with her utter depression. That is why she was invited to Taipei. Serving as a guest professor at the University in Taiwan, let's attend her under our care!

Professor Slenczynska always warmed up her fingers for several hours beforehand so that she is prepared for her lesson with students. Gradually her fingers have been strengthened. At the same time it was when she became aware that her sounds on the piano are completely different from before. Recitals and concerts upon request have rapidly increased through word of mouth.

By now Mrs. Slenczynska has become one of the most beloved pianists in Taiwan.

In January 2003, after five months, I was very much moved by her performance (one of Chopin's e´tude). Grace to the encounter, her first performance in Japan has realized.

In the meantime the concluding stage of her life has been just around the corner. What her art has developed in Okayama Prefecture, Japan, is described in full detail in the commentary pages of The Art of Ruth Slenczynska Vol. I, II, III (CDs). Under the blossoming cherry trees in April 2003, trees are ablaze with autumn colors in November, intensely hot season in July 2004, and in the depth of winter in January 2005 − unintentionally in the very four seasons she visited Japan.

I think it gave a good chance to build up the program of Mrs. Slenczynska's last recital.

Four Scherzos and four Ballade by Chopin are considered to symbolize the four seasons of the composer's life. (Chopin only lived to be thirty-nine!) It is quite natural for Mrs. Ruth Slenczynska to have intended for leaving a certain message, identifying her own life with that of the composer. Above all she is descended from Poland as well as Chopin! (Besides, four pieces from the Ballet 'Cinderella' − Fairy Spring, Fairy Summer, Fairy Autumn and Fairy Winter − were added to her program just before one month of the recital. Thus it became very clear that her choice was deeply conscious of the four seasons in Japan.)

Mrs. Ruth Slenczynska stayed in Okayama more than forty days for these two years. "This is the kingdom of heaven!" − So she always told us.

Our family members were willingly in charge of behind-the-scenes arrangements, for we fell in love with her music and personality. Only we made an effort to be polite to our master pianist, and her compliments seemed to be really more honor than we deserve.

Spring, summer, autumn and winter − every season is truly beautiful in Okayama, and we are rich with food here. We guided her to places of natural beauty and historical sites and to the best restaurant during her stay here. "Wonderful!" "It is really delicious!" We, as her guide, were sincerely delighted to hear of her taking pleasure.

The building of the Liu Mifune Art Ensemble is our small hall isolated from outside. There are paintings of my father on display. And Toshiya Hironaka has made every painstaking effort to tune the piano (Steinway 1926), which Mrs. Slenczynska calls "my friend." It has been her most pleasurable time that she holds a dialogue together with the piano to her heart's content the whole day long.

There have increased real fans of her through her recitals and CDs for two years. They have been always looking forward to listening to her performance, which fact is sure for her to bring joy.

At the beginning I was uncomfortable enough with the fact that the recital has become her last one, because I planned it to celebrate her eightieth birthday. Mrs. Ruth Slenczynska has been evolving day by day these two years. I totally came to forget that she is a little eighty-year-old lady, for she has displayed unremitting energy.

"It is truly something extraordinary that an eighty-year-old lady exercises on the piano eight hours a day." "I would like to finish when my condition is the best!" So she took a firm resolution.

In the end this place of Okayama, where everything is ready to support her attempt for the time being, was chosen to have her last recital.

There were held two magnificent recitals in Taipei to celebrate her eightieth birthday on 20th January 2005. Then Mrs. Ruth Slenczynska arrived at Okayama.

In the meantime her schedules have increased more than the original one, too. Her tight schedule within a week was as follows: Three-time rehearsals with orchestra for the sake of the concert on 30th January (Concerto for piano and orchestra No. 1 by F. Liszt, Concerto pour piano et orciestre op. 21 by F. Chopin and Concerto for piano and orchestra No. 1 by P. I. Tchaikovsky), concerto and recital one day after another at Okayama Symphony Hall, recitals at Liu Mifune Art Ensemble twice, rehearsal with the conductor Akiyoshi Sako, six-time recordings, a recital at a primary school in the suburb of Okayama (It was the first and the last one in her life!), a hastily-arranged TV interview to make a documentary film for one week, and so on.

Could Mrs. Slenczynska keep herself in good condition amidst cold winter in spite of such a tight schedule? What is more, on the next day of her arrival one piano string was disconnected of our seventy-nine-year-old piano. Could the piano together with Mrs. Slencznska bring the last concert to a successful conclusion? I have warmly watched over the condition of these 'two elder ladies' with earnest prayers.

How much pressure would she have to meet at the very last performance in her life? A lot of episodes, her brilliant career, and having earned high praise − such a legendary pianist have prepared a formidable program by herself. Thus the pressure placed on her last concert is beyond all imagination.

She came back to her room in the hotel before eleven o'clock each night. She did rinsing and washing her hair by herself. ("I can do it by myself!" Mrs. Slenczynska said so to my wife, though my spouse willingly ready to attend on her.) Getting up 6:30 am in the morning, tiding her room, reading newspaper, writing letters, then she came down to the lobby at 8:45 am waiting for us. In this way she led a regular life. At every moment she observed her surroundings conscientiously and responded each of them with genuine wholeheartedness. Especially her sincere attitude impressed me deeply when she shouted for joy at a white daisy among the grass early in the morning near our hall. One afternoon we visited Korakuen park for a walk, for we had some time after the recording until the concert in the evening. Fairy tale Momotaro in English edition was presented to her at the cafe´ in the park. Because she found it very interesting, she read the whole story aloud to us just like a primary school teacher. She is polite to everyone, replying with heartfelt simple words. Listening very carefully to each tone, she exercises one note after another on the piano in an exact way. It truly leaves a deep impress on the minds of us that she tries to live in a right way every minute and every second.

The rich accumulations of her sincere living attitude must be the very secret that her career has been with the evolution, even though she stopped standing in the spotlight by her own will. And the last concert here in Okayama became a compilation of her work.

The absolute love for the piano since three years old trained herself. She has overcome every hardship unified with the piano. Thus she has come to the stage where she encourages people to live for higher aspirations by means of her piano. A very unique pianist, Mrs. Ruth Slenczynska, sharing the God's characteristics in herself! The last notes of Ballade No. 4 by Chopin has been performed in the Okayama Symphony Hall. Mrs. Slenczynska played two encores for the standing up audience with enthusiastic applause. First, Waltz No. 14 by Chopin was performed remembering the two-year-old son of my younger brother. Next, having finished playing Grandes etudes de Paganini No. 4 "Arpeggio", she said to me holding my hands, who was breathless with excitement at the stage door, "This is for you!" It fully takes two hours to play through the whole program. At the end of such a hard course Mrs. Slenczynska willingly chose the very difficult piece by Liszt. "Don't worry! I am still capable enough to play the piano!" − This is her message of gratitude for our concern about her, expressed in her archly unique way.

How about the other 'elder lady'? Our seventy-nine-year-old Steinway piano fortunately sustained the whole program of Mrs. Slenczynska until the very end, though there was the other piano string which could be broken. On the stage, recordings, and videotape recordings − our piano accompanied her in the best way. On the next day of the recital it was snowing very much in the morning, which is rare in Okayama. In the afternoon our piano safely came home from Okayama Symphony Hall without meeting the big snow.

Later after two days the other piano string broke.

On the nest day when all her performance was over, she started exercising just at nine o'clock sitting in front of the piano as usual. She only stopped her performance in public; therefore, she did not mean stopping to play on the piano at all. Piano is the best friend of her and the piano would be hers forever.

Her story does not end here. There are various incredible miracles and episodes after that (and of course hitherto). I would like to finish now. I am looking forward to some day in the future to tell them to you.


translator  Kiyoko Kruzliak

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