超人ピアニスト、20世紀最後の巨匠ルース・スレンチェンスカとの出会い
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三船文彰

T これこそが本当のピアノの音だ!

チェロ弾きの歯科医
私は生活の大半の時間を歯科の診療にささげている、どこにでもいる歯科医の一人であるが、多くの同業者といささか異なる所があるとすれば、音楽への情熱がやや突出しすぎている、ということかもしれない。そのことがこれまでに私に多くの血涌き肉躍るような出会いをもたらしてくれた。その中でもルース・スレンチェンスカ先生との出会いは私には奇跡としか言いようのない経験となった。

私は画家で音楽好きだった父の影響で、小さい時からヴァイオリンを始め(台湾の南部の小さい町で小学生まで過ごしたので、先生はなくほとんど自我流だったが)、14歳のとき一家が岡山に転居してからチェロに転向し、以来チェロ一筋、歯科医になっても演奏と診療の二足のわらじを履いて家族をはらはらさせてきた。

いまから10年前に、あるご縁で1926年製フルコンのスタインウェイのピアノを引き受けた。翌年神戸へオーバーホールに出し修理が終って、岡山に送り返されて2週間後、その調律師の工房が阪神大震災で全壊し、危うい所で難を逃れたという運の強いピアノだ。

その後、56歳で早逝した父の17回忌に、父の残した絵を収蔵する美術館を自宅の前に建てる予定もあり、このピアノが生きるようにと美術館兼ホールの設計にし、この小ホール (劉生容記念館 Liu Mifune Art Ensemble)でコンサートを30数回重ねている。
制作中の劉生容

制作中の劉生容(1966年)
このように私は歯科の本業をしながら演奏活動をし、一期一会の音楽会もプロデュースするという、音楽を愛する者の冥利に尽きる生活を送ってきたが、もちろんここに至るまでには多くの出会いとご縁の積み重ねがあり、何より天性の芸術家だった父から受け継いだ芸術への絶対的な愛着と尊敬の念がつねに私の生きる力となってきたからだと思う。

それでも、もし16歳の時にチェリストの岩崎洸氏との出会いがなければ、私の人生はかなり違うものになったのではないか。

同じ台湾で生まれた(洸先生は高雄生まれ)という強引なこじつけでコンサートへ押しかけ、チェロを聴いてもらい、故斉藤秀雄先生に紹介してくださったことが(私が最後の入門生となったが)私にチェロの魅力にさらに目覚めさせ、そして今に繋がる多くの演奏家と親しく知り合うきっかけともなった。そして2年前岡山シンフォニーホールでなんと、まったく指揮のシロウトである私が洸氏のチェロ独奏でドヴォルジャークのチェロ独奏曲を競演したりと、この10年来岩崎洸氏との交流がさらに親密となった。


ルース先生との劇的な出会い
2003年、洸先生とのご縁のある台湾で、台湾の若い音楽家達に洸氏の経験を伝えてほしいという思いから、台北で歯科を開業している、私同様音楽好きの弟とジェリアード出身のピアニストでもある弟嫁に準備の労を取ってもらい、洸氏と姉のピアニスト岩崎淑さん(淑さんは9歳まで5年間台湾の高雄で過ごしている)を台北へご案内し、知人の音楽評論家曹永坤氏のお宅で日台演奏家によるジョイント・コンサートをしていただいた時のことだった。

前半のシューベルトのピアノ五重奏曲「ます」が終了した時、曹氏が「今日の来賓の中にルース・スレンチェンスカ先生がいらっしゃっているので、彼女にぜひ一曲弾いていただきましょう」とアナウンスがあり、最前列中央に腰かけていた小柄の老婦人が満面の笑顔をたたえて、ゆっくりピアノへ進んだ。私はてっきりどこかの大使夫人が余興でシロウト芸のピアノを披露するのかと思い、「曹先生も場違いのことをなさるものだ。こんなすばらしい演奏のあとに!」と実はちょっとびっくりした。

しかしその考えも老婦人の指から、ショパンのエチュード作品25の1曲目の最初の音が出た瞬間、ふっ飛んでしまった。思わず私は休息のため戻ってきて、横に座っている淑先生と顔を見合わせた。

それでも、1番はどうも身長150cmにも満たないこの老婦人にとって、ウォーミングアップだったようだ。二曲目の12番で私はすっかり打ちのめされてしまった。滔々と流れる3分に及ぶフォルテシモのアルペジォの一音一音が何と力強く、情熱的であることか!そして何と気高い演奏の姿であることか!

聴衆が立ち上がって「ブラボー」と拍手喝采したのは言うまでもないことだったが、淑さんは「これこそが本当のピアノの音だ!」と叫んだ。

私は即座に老婦人の所へ行き、そして「ぜひ日本の岡山にある私の小さいホールで演奏して下さいませんか」とお願いした。しかし老婦人は微笑むばかりで答えてくれなかった。

その夜一緒に食事をしながら、さらに驚くべきことが次々とこの老婦人の口から出てきた。何と彼女は小さい時にホフマン、コルトー、シュナーベル、バックハウス、ラフマニノフという歴史の教科書に出てくる超巨匠達に師事(コルトーは7歳から14歳の7年間!)、ホロヴィッツとも生涯を通じて親しい友人だったこと、そして淑先生が流れをくむヴァンガロヴァ先生に直接教わったことを聞いて、淑先生は飛び上がらんばかりに驚きの声を上げた。

昼の2曲目のショパンの演奏とこのわずかなエピソードだけで、背筋をピンと伸ばし、小学生の身長しかない、われわれの前に座っているこの白髪の老婦人はタダものではないことを思い知らされた。

翌日さっそく弟に知人から資料を取り寄せてもらって、やっとこの老婦人の詳しいプロフィールがわかった。

そして3年前にご主人が亡くなって、ピアノを弾くことをやめてしまったくらい悲しみに暮れていた彼女を台湾人の教え子が台湾に呼び、台北の東呉大学で2002年9月から一年の契約で客員教授として台北に滞在中であることがわかった。

いずれにしても、私のような音楽愛好者の個人の音楽会にきてもらえるようなピアニストではない、まさに巨匠だったのだ。

台北から岡山に戻ってからも、ルース先生の弾いたショパンのエチュードの一音一音が耳から離れず、もう一度ぜひ聴きたいという思いが日々募り、とうとう3月に病院を4日間休診にして、ルース先生に直談判しに台北に飛んだ。ついに先生も根負けして「4月桜の花のきれいな時なら岡山へ行ってもいい」という約束を取りつけた。

このようにしてルース・スレンチェンスカの来日コンサートが実現することとなった。しかも驚くべきことに、これがなんと彼女の初日本デビューでもあったのだ。ルース・スレンチェンスカほどのキャリアとエピソードを持つ巨匠が、生き馬の目を抜くくらいあざとい日本の音楽興行界の情報の網からずっと逃れていたこと自体、信じがたいことだが、その答えは簡単だった。現在活躍中の演奏家以上のキャリアを積み上げていた彼女は40歳後半で、本当の自分の芸術を極めるべく、惜しげもなく商業的な演奏活動を一切やめたからだ。しかしそれがどのくらい大変なことかは私はまだ理解できなかった。

興奮しつつ4月6日のコンサートに向けて準備を進めながら、それでも私にはまだ一抹の不安を感じていた。78歳という高齢だから、いくらこれまでのキャリアがすごいと言ってもテクニック的にはかなりほころびもあることだろう。あってもおかしくない状態だ。これまでに80歳近い年齢で完璧な演奏ができたピアニストがいただろうか。そういう所は大目にみてあげなくてはいけない、などと考えていた。

しかし私の憶測はルース先生が岡山に到着したその日から木端微塵に砕かれることとなる。

4月4日夜9時、私の弟に伴われて(今度は弟が台北の病院を4日間休診にした)台湾からの長旅にもかかわらず、ルース先生はとても元気そうに岡山駅から出てきた。

聞けばその昼の12時まで台北の大学で10数人の生徒にレッスンをしてから出かけたというのでまず驚いた。

遅い夕食のあと「ピアノを先に見たい」とのことで家の小ホールへお連れした。幸い先生がいつでも練習できるようにと、ピアノは日本指折りの腕ききの調律師弘中俊也氏に2日前から20数時間かけて調整してあった。待ちに待ったルース・スレンチェンスカの音が初めて日本で鳴り響いた。

そのすさまじいパワーに眼を白黒させている私達に「飛行場を降りた時からこのピアノに一刻も早く会いたいとずっと思っていたのよ。明日は9時から練習します」と言って、夜中の1時頃満足そうにホールを後にした。

ラフマニノフ直伝の練習法
翌日9時きっかりに、ピアノの前に座り、その長くユニークな練習の日課(3歳から70年つづいている)がスタートした。

ピアノを自我流で弾く私にはプロのピアニストの練習とはどんなものかわかるはずもないが、チェロの場合から見てもそれはかなり不思議な練習だった。2日間を通してつねにメトロノームを使って練習した。しかも一番遅い速度から片手ずつ、そしてほとんどわからない程度に目盛りを上げていく。それぞれが所定のスピードに達してから今度は両手で一番遅い速度から同じように根気強くくり返す。しかしそれだけでは終わらなかった。われわれがもうすでに完璧すぎる、と思う仕上がりになっても、同じフレーズを今度は五本の指の一本ずつ、アクセントを変えながら(淑先生がルース先生に伺ったところ、ラフマニノフ直伝のシフティング・アクセント奏法ということだ)片手ずつからまた最初から同じことをくり返していく。

もちろん楽譜なし、暗譜で自在に曲のどのパートからでも片手ずつ練習できることは、プロなら当り前かもしれないが(知人のピアニストに聞いたら、それだけでもすごいことらしい)、そのように音楽がバラバラになる寸前まで徹底的に一音一音を分解しての練習方法にド肝を抜かれた。

そういう恐ろしく単調で忍耐力を試されるような練習は朝、午後、夜で各3時間続いた。それは彼女の75年のピアニストとしての日課であった。私はピアニストにならなくてよかったと心底思った。

ルース・スレンチェンスカが生まれる前から、ヴァィオリニストの父親がすでに母親のお腹に向かって「この子を必ず世界一のピアニストにしてみせる」という野望を語りかけたという。

そして3歳から1日8時間以上のスパルタ的な練習を課し、5歳の頃から、神童としてヨーロッパ各地を演奏して回った。演奏というよりもサーカスの興行と言ったほうがいいようなものだったらしい。どの演奏会も彼女が 曲を弾き終えるやいなや、聴衆はピアノに仕掛けがしていないかどうか調べたり、ある音楽評論家は「この女の子は畸形に違いない−つまり成長の止まった大人だ‐、医者に調べてもらわないと納得しない」と言い出し、とうとう有名な医学者が新聞で「この患者(!)は病気ではない」という記事を出さなくてはいけなかったほどセンセーショナルなものだった。

14歳までに数々の巨匠に教わり、40歳までには3千回以上のコンサートを世界各地で行った(現在の超売れっ子演奏家でも年間80回以上のコンサートをすれば人間的な生活ができなくなると言われるくらい過酷なスケジュールをこなしつづけても40年はかかる計算だ)、という経歴からだけでもルース・スレンチェンスカはまさに超人的なキャリアを持ったピアニストであることがわかる。

弾こうと思えば、どんな曲でも即座に9割以上の完成度で演奏できるこのような巨匠が、さらに全身全霊のエネルギーを注いで一音一音に磨きをかけている様子をつぶさに目撃して、私だけでなく人々の耳にいつまでも残り、心を揺さぶられる音の魅力の秘密がわかるような気がした。

そしてピアノを離れた時の、心底からの笑顔と温かい適切な一言一言は私たちに、いまはまさにこの世界で最も偉大な人間の一人と貴重な一瞬を共有している、という感動を新たにした。

このようして、2003年桜満開の4月6日、ルース・スレンチェンスカの初の日本演奏が劉生容記念館で行われた。

初来日コンサート
予想を上まわる豊かな音楽に聴衆全員息を飲み圧倒された。ピアノの一音一音が意味を持ち、メロディーとか作曲したベートーベンやプロコフィエフやショパンの意図はどうとかなど、そういうことはどうでもよかった。ルース先生の指から響いてくる一音だけで心が安まり、その中に無限の世界が広がっているような感じがして、いつまでも身を委ねていたいと思った。

そして私にとって最も感激したのは、アンコールに、私が台北へ演奏会の依頼に上がった時に、ぜひプログラムの最後にとお願いした、シューマンの「きみにささぐ」をアンコールに弾いて下さったことだった。「アヴェ・マリア」の旋律でしめくくられるこの感動的な小品は、恐らく最初で最後となる日本公演の最後の曲にふさわしいと思ったからだったが、この時、老巨匠はすべての聴衆にお別れのあいさつをしつつ、私に感謝の言葉をかけて下さっているように感じ、感無量だった。

この夜の演奏会は、演奏家、ピアノ、調律、聴衆、季節、場所、曲目のすべてが完璧な状態で調和した、稀有のものとなった。どんなマニアのクラシックの愛好者でも、一生に一度出会えるかどうかの、まさにユートピアを体現したコンサートだった。

何人かのピアニストが感激のあまり言った言葉がすべてを言い表わしている−「ルース・スレンチェンスカのピアノを聴いて、人生がかわりました!」
ルース先生拍手を受ける

2003年4月6日、劉生容記念館での日本初演奏(非公開)
私にとって、ルース・スレンチェンスカ先生との出会いは奇跡に近いものだったが、巨匠からいただいた多くの思い出の中で一番貴重だったのは、75年間才能と命のすべてを注ぎ込んだピアノの演奏を通じて、一人の人間として示せる最大限の心意気を感じたことだった。

演奏会の翌日の昼にルース先生は再び弟と岡山駅から帰途についたが、その朝も、いつもと変わらず、朝の9時から出発のぎりぎりまでピアノの前に座り、一音一音練習を続けた。

その後、6月にSARSが猛威を振う台北で(町の交通量が10分の1以下に減り、公共施設への集会などがつぎつぎ禁止となるというような情況だった)、ルース先生のさよならコンサートが行われた。

「私はコンサートをやめない!私の演奏でもって台湾の人々にSARSに立ち向かう勇気を与えたい!」

演奏の最後に聴衆が全員立ち上がって拍手喝采したのは、ルース・スレンチェンスカのコンサートではいつものことだったが、一つ違っていたのは、台北国立シンフォニーホールの聴衆が全員、顔にマスクをつけていたことだった!命の危険を感じながらも敬愛する巨匠の最後の演奏に1,800人以上の人がかけつけたのだった。

私だけでなく、どんな人にとっても、ルース・スレンチェンスカとの出会いは奇跡であると思う。

春の夢の幻のように、ルース先生が現れて、そして消えた−一生忘れ得ぬ本当のピアノの音と思い出を残して…

しかしその時、私は半年後に、さらなる奇跡が起こり、4月の演奏会は単なる序奏にすぎない、と思えるほどの超人的なコンサートをルース先生が再び岡山で行うことになる、など夢にも思えなかった。
       
岩崎氏とリハーサル

2003年11月、岩崎洸氏(指揮)と
サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番の打ち合わせ
着物姿のルース先生

2003年4月、初来日の翌日 お茶事を初体験
U 2回目の来日コンサート

仰天の日本での2回目の精力的な活動
 (11月公演後の友人への手紙より)
個人的には、2003年11月2日から10日の9日間、ルース先生の音楽とお人柄にさらに魅せられたことは言葉に言い尽くせない幸せでした。これほど時間が過ぎていくのが惜しいと思ったことはありません。一音一音、一言一言が心にしみて、感動で眼が涙でにじみっぱなしの日々でした。
    
ルース先生ホールで演奏

2003年11月岡山シンフォニーホールでの
リハーサル
そもそも11月の公演をお願いすることとなった最大の原因は4月私の小ホールでのコンサート後に「この十年来一番満足した演奏!」とルース先生が何回もおっしゃっていましたのに、いいように録音を残せなかった、という無念さが高じたことにありました。どうにかもう一度この小ホールのピアノで、ルース先生の演奏を記録に留めておきたいという切なる願いですべてがスタートしました。

そして日本の愛好者にこの幸運を広げようという考えで、この小ホール以外にも岡山シンフォニーホールでのリサイタル及び岩崎洸氏の指揮によるサン・サーンスのピアノ協奏曲、2回の公開レッスンなどと演奏会の数も曲目も増えていきましたが、先生は一度も多すぎるとはおっしゃらず、うちの小ホールが定員オーバーと聞けば、追加コンサートをしましょう、
公開レッスンの受講者が定員の5名をはるかにこえて16名となったと申し上げたら「一人でも受講できない子がでるのは可哀想だから」と4時間もレッスンの時間を延長して下さったりと、こちらが心配するくらいどんどんスケジュールを増やされました。日本での公開演奏で何かを残そうという先生の強い意志と心意気を感じました。

岡山に到着された11月2日の夜、私どもの小ホールに直行し、4月同様すべてのプログラムを一気に完全に弾かれ仰天したのは序の口で、それから6日間毎日朝9時に練習を開始し午後は3〜4時間のレコーディング、夜はオーケストラとの練習や、コンサートの本番が連日のように続く、11月8日私どもお小ホールでの2回の追加コンサートの日などは朝9時から練習、午後1時から5時レコーディング、夜7時〜9時コンサート、9時〜9時半サイン会、9時35分〜11時にもう一つの追加コンサート、というスケジュールを顔色一つ変えずに、しかも食事は昼のサラダのみで、お水も飲まずにこなされました。「ピアニストはこのくらい働くのが普通ですよ」と何でもなかったかのようにおっしゃりながら…。この日の演奏時間はちょうど新幹線で岡山・東京を往復するくらいの時間弾きっぱなしということで、78歳という年齢を考えたらもう超人としか言いようがありません。

「本当のピアノの音」〜CD発売へ
最高の録音が残せるようにとのことで、ピアノは弘中俊也氏に一週間前から60時間以上、そのあともつきっきりで調整を行い、録音は久保陽子さんの最新CDを手がけていた、ベテランの吉岡、大谷両氏に一週間詰めてルース先生の本番と練習を録っていただきました。これで私の責任と夢がすべて完結致しました。

10日の夜、ささやかな送別会を致しましたが、「ルース先生がして下さったすべてのことに私達家族からできる唯一のプレゼントはこれらの録音です。どうか世界のピアノ愛好者のためにCDにして出版して下さい。」と申し上げたら、「これらの録音は日本で演奏したものですから日本人のものです。そしてあなたのものです。」とおしゃって下さいました。私のような者には荷の重すぎる大きな仕事ですが、先生のためそして先生の演奏をいつも聴きたい、聴いていたい方々のためにCDを出すことにしました。

三船兄弟とルース先生

(三船兄弟)「芸術家の使命は人生に夢を与えることです。二人のドクターミフネは十分にそれを理解してして下さっているので、私はあなたたちのためにベストをつくすつもりです・・・
(2003年5月ルース女史の手紙より)
 「喝采はやがて伝説となる」というキャッチフレーズがいささかも誇張ではなかったことは岡山シンフォニーホールでのコンサート終演後の1時間に及ぶサイン会での聴衆の熱狂と混雑ぶりで証明されました。そして今思いますのは、日本は今や二つのグループに別れてしまったということです。一方はルース・スレンチェンスカの演奏を聴いた人、もう一方はルース・スレンチェンスカの演奏を聴けなかった人。そして幸いにも私たちは前者に属してしるという悦びです。

願わくば、近い将来もう一度来日され、再び「本当のピアノの音」を聴かせていただけることを祈るのみです。

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The Encounter with Mrs. Ruth Slenczynska - An Amazing Piano Virtuoso at the End of the 20th Century
By Bunsho Mifune

I. This is true sound of the piano!
A dentist who loves playing the cello

Although I am one of the ordinary dentists who devote to treating patients most of my time, the only difference might be my wholesouled enthusiasm for music. Thanks to the unquenchable ardor, a lot of exciting encounters have been brought to me. Especially the encounter with Mrs. Ruth Slenczynska has been no other than a miracle-intervened experience.
My father was a professional painter who loved music. He had a direct influence on starting playing the violin in my childhood. Our family moved from Taiwan to Okayama, Japan, when I was fourteen years old. Since that time I started playing the cello. My family members are sometimes uneasy, due to my concentrating on the cello alongside of my profession as a dentist.
It was around 1994 when I received a full-concert Steinway grand piano made in 1926 grace to the fortunate connection. Next year I sent it to Kobe to a complete overhaul. The piano returned to us, and just after two weeks, the big earthquake around Kobe and Osaka regions totally destroyed the workshop of our piano tuner. Therefore, our piano escaped the earthquake by a hairbreadth; it was really fortunate enough. My father passed away quite early at the age of fifty-six. Installing an art museum to contain my father's paintings was planned in front of our home at the time of seventeenth anniversary of his passing away. Thus, Liu Mifune Art Ensemble is designed not only as an art museum but also as a concert hall. Concerts have been held more than thirty times there.
Main occupation as a dentist, musical performance by myself and a unique concert producer - in every aspect of my life I am a lover of music grace to the close relationships with beautiful personalities and encounters. Above all my father was born an artist who has bestowed absolute love and reverence for art upon me. It has been also the driving force of my life.
It was truly epoch-making when I was introduced to Mr. Kou Iwasaki, a violoncellist, at the age of sixteen. Simply because both Mr. Iwasaki and I were born in Taiwan, I asked his favor to listen to my playing the cello at one of his concerts. Thus, Mr. Iwasaki introduced me to the late Mr. Hideo Saito. (As a matter of fact I became his last student of violoncello.) He offered me exceptional attractions to the cello, and the encounter at the same time provided me for getting to know a lot of performers to whom I owe much today. What was more, I was given a chance to conduct Dvorak's Cello Concerto where Mr. Kou Iwasaki was the soloist of cello at the beginning of 2000, even though I was an amateur. Thus, our cordial relations between Mr. Iwasaki and I have further improved these ten years.

A dramatic encounter with Mrs. Slenczynska

It has been my earnest wish for young musicians in Taiwan to be able to learn directly from Mr. Kou Iwasaki. Therefore, in 2003 I asked my younger brother, who is also a dentist in Taipei to prepare for it. He loves music, too, and his wife is a pianist who graduated from Juilliard School of Music. Then I accompanied Mr. Kou Iwasaki and his elder sister pianist Mrs. Shuku Iwasaki to Taipei. (Mrs. Shuku Iwasaki had lived in Kaohsiung, Taiwan for five years until she became nine years old.) A Taiwanese-Japanese joint concert was held at home of Mr. Yonkun Zahou, a friend of mine, a musical critic.
When Piano Quintet 'Trout' by Schubert finished as the first half of the program, Mr. Zahou announced, "Today, our honorable guest Mrs. Ruth Slenczynska is with us. We would like to ask her performance!" A small elder lady in the first row slowly stepped to the piano with a smile. Mrs. Shuku Iwasaki and I looked at each other at the very moment when her Etude Op. 25-1 by Chopin sounded its first note. However, the Op. 25-1 looked as if the less than 150 cm tall elderly lady just warmed up her fingers. The second Etude Op. 25-12 by Chopin moved me thoroughly with admiration and awe. How powerful and passionate fortissimo arpeggio sounds are! What a dignified performance she does! "This is the piano's true sound!" exclaimed Mrs. Shuku Iwasaki and I with admiration.
In that evening we could have dinner with the elderly pianist. What she told us at the dinner table was really more astonishing. Josef Hofmann, Alfred Cortot, Artur Schnabel, Wilhelm Backhaus and S. Rachmaninov - all of these masters were her teachers. Vladimir Horowitz was her life-long friend until his passing away. We uttered an exclamation about these facts. The two piano pieces by Chopin and her touching episode brought us to the conclusion that the elderly lady with white hair, who sits up straight being as tall as a pupil of primary school, is a legendary personality.
The elderly lady's profile in more detail was known to us next day. Her husband passed away three years ago, and she stopped playing on the piano. Thanks to her Taiwanese students who invited her to Taiwan, she accepted a position as a guest professor at Dong Wu University for one year since September 2002. When I came to know her identity as a truly legendary pianist, it could hardly be expected for me as an individual lover of music to invite her.
Nevertheless, Mrs. Slenczynska's performance of Chopin has always sounded to my ears even after I returned home in Okayama. Because I have yearned for listening to her piano once again, I flew to Taipei in March 2003. "I would come to Okayama when cherry blossoms are in full bloom in April," promised Mrs. Slenczynska in the end as I asked her with great earnestness. Thus, her concert in Japan has come true. And it was her first visit to Japan. The answer is rather simple, though it is hard to believe. Mrs. Slenczynska stopped all of her commercial performance at the second half of her forties in order to seek after her own value of art. That is why she has not been known to the Japanese who are related with music. Even though I started preparing for her concert in Japan, I felt a little anxious about her. There would be unfortunate lapses in her technique, for she is already seventy-eight years old. "I have to overlook such mistakes of her," was my way of thinking at that time.
My guesses were wrong. Mrs. Slenczynska arrived at Okayama station at 21:00 p.m. on April 4 accompanied by my younger brother. She was quite well with her. My brother told me she left for Japan after she had finished lessons with more than ten students at the university in Taipei. The story was my first surprise. "First of all, I would like to see the piano," said Mrs. Slenczynska. According to her request we drove her to our small hall. Our Steinway 1926 piano has been already tuned very well by Mr. Toshiya Hironaka, an expert in Japan who invested his soul and technique more than twenty hours for our piano. At last Mrs. Slenczynska's piano sounded here in Japan for the first time, and all of us were fairly astonished by her vitality. "I will start my exercise at nine o'clock tomorrow," said she and left our hall at about one o'clock at midnight being very satisfactory.

Exercise method directly taught by Rachmaninov

On the next morning at nine o'clock Mrs. Slenczynska seated in front of the piano and started the unique daily exercise. (She has kept on doing this daily exercise for seventy years.) The exercise was quite mysterious. Two-day as a unit, the tempo of the metronome starts from the slowest, and gradually goes up to faster tempos unobtrusively. First, with one hand only. As each hand reached a certain tempo, then she repeats it with both hands. Besides, it was not all of the process. Next, having one fixed phrase, she accents the sound on one of five fingers. (This is the shifting accent method directly taught by Rachmannov.) This process also repeats the same beginning with one hand. Therefore, the sound is taken to the least pieces thoroughly, so her exercise was terribly monotonous and requires a considerable amount of perseverance. This type of her exercise lasted for three hours in the morning, in the afternoon and at night. This has been her daily task for seventy-five years as a pianist. Truly I thanked God did not bestowed an innate talent for a pianist upon me.
Her father, a violinist, prayed for his ambition while her mother was pregnant with her, "This child shall be the best pianist of the world!" The Spartan way of daily lesson lasted more than eight hours a day since she became three years old. As a child prodigy she journeyed all over Europe when she was about five years old. As soon as her performance finished the audience was curious about whether her piano had a device. Or one of the musical critics commented, "This girl must be deformed," i.e. an adult whose growing up has already ceased. Her appearance was so sensational that one famous doctor finally had to write an article for a newspaper, which confirmed, "This patient (!) is not ill at all."
Mrs. Ruth Slenczynska has studied under several masters until her age of fourteen. More than 3,000 concerts had been held all over the world as she became forty years old. According to her career, she is truly a superhuman pianist. She is a piano virtuoso who can perform any piece as impromptu with more than 90 per cent perfection. Now I witnessed such a master polishes every sound with all her soul and strength. Why does her performance greatly impress us? The secret of her immense charms corresponds to her way of life. There are her smile from the bottom of her heart and appropriate warm words when she is not engaged in a performance. The fact that we are related with one of the greatest personalities of the world preciously at the very moment - it moves us to strong emotions.
Thus, Mrs. Ruth Slenczynska's first performance in Japan was held at the Liu Mifune Art Ensemble on April 6, 2003 at the season of cherry flowers in full bloom.

Her first concert in Japan

The audience was deeply affected by Mrs. Slenczynska's enriched music that was far beyond our expectations. It was not necessary to analyze the significance of each sound of her piano. There was no need of taking care of the melody or the intention of composers Beethoven or Prokofiev, either. Every sound by her fingers relieved us so much that we would like to entrust us to the boundless world of her music.
As for the encore, she played 'Widmung' by Robert Schumann. Above all I was very moved by her, for I especially requested her to perform it at the end of the program. The moving piano work 'Widmung' finishes with the melody of 'Ave Maria.' Therefore, I thought it would uniquely fit as her last piece probably for the first and at the same time the last recital in Japan. The elderly master bade farewell to all of her audience. What was more, her performance of the 'Widmung' seemed as if Mrs. Slenczynska expressed me her heartfelt gratitude.
The pianist, the piano, tuning technique, the audience, the season, the place and piano pieces - every element of the recital at that night was unified into perfect harmony. It is rare for us to have such a chance. Even a classical music mania would be very fortunate if he could meet such a recital only once in his life. Literally the recital realized utopia. "Having listened to Mrs. Ruth Slenczynska's piano, my life has totally changed!" commented some pianists among the audience in this way. Those words of excitement tell everything.
What is the most precious about Mrs. Ruth Slenczynska is her utmost uplifted spirit as an individual personality. Her performance of the piano has shown us the result of investing all of her talent and life for seventy-five years. Next day at noon Mrs. Slenczynska left for Taiwan accompanied by my younger brother. She sat in front of our piano at nine o'clock in the morning and practiced as usual. Exercising and polishing every sound went on till the last moment of her departure.
In June 2003 her farewell concert was carried out in Taipei. It was the time of SARS widespread all over. (The transportation quantity decreased to less than one tenth and gatherings at public facilities were banned one after another.) "I will not cancel the concert! May my performance give the Taiwanese courage to fight against SARS!" At the end of her concert everyone stood up to heartily applaud as usual. One thing was different, i.e. all of the audience in Taipei National Symphony Hall put on a mask on the face! Risking one's own life, more than 1,800 people gathered together honoring the last concert of their beloved master.
The encounter with Mrs. Ruth Slenczynska is a miracle. It applies not only with me but also with anyone else. Mrs. Ruth Slenczynska has appeared like a vision in the dream of spring, and she disappeared behind the true sounds of her piano unforgettable forever …… At that time I did not dream at all what miracle would happen half a year later. Her recital in April 2003, in fact, became the Prelude of her further superhuman concerts in Okayama.

II. Mrs. Slenczynska's second visit to Japan
Her astonishingly energetic activities at the second visit to Japan
(Excerpts from the letter to a friend of mine after her performance in November 2003)

It is very fortunate of me to have accompanied Mrs. Ruth Slenczynska for nine days during November 2 - 10, 2003. Having been enchanted with her music and personality, I was reluctant to recognize those precious days passed by. I shed tears so often whenever her performance or what she said moved me deeply.
The main reason why I requested her visit in November was my deep-felt regret that we could not record her performance in April. Mrs. Slenczynska often mentioned after her recital at Liu Mifune Art Ensemble, "It was the very best performance I am satisfied with of these ten years!" Our earnest wish to record her performance in our small hall became the common starting point.
We also would like to share our fortune with other Japanese music lovers. Except the recital at Liu Mifune Art Ensemble, a recital in Okayama Symphony Hall, Piano Concerto by Saint-Saens (Mr. Kou Iwasaki, conductor), open piano lessons twice and so on - the number of her concert and piano works have increased. However, Mrs. Slenczynska did not take it too much. As our hall was not able to invite more because of limited seating, she suggested holding additional recitals. 16 children applied for her open piano lesson, though we originally scheduled with five candidates. "It is truly pity even one child would miss it," said Mrs. Slenczynska and she prolonged the lesson's time four hours more. Even though we were worried about her, she increased her schedules one after another. Thus, we understood her strong will and spirit to leave a legacy by her public performance in Japan.
Mrs. Slenczynska arrived in Okayama at night on November 2. Having straightly driven to our small hall, she played on the piano all the works of her program perfectly all at once. It was the same amazing attitude of her at the very beginning in April.
At 9 o'clock in the morning her exercise begins, the recordings for three or four hours in the afternoon, rehearsals with orchestra or her key stage of concerts at night - for six days this kind of her schedule repeated every day. On November 8 she did additional recitals twice at Liu Mifune Art Ensemble hall. Her schedule of the day was as follows: <from 9:00 a.m. -> exercise on the piano, <13:00 - 17:00 p.m.> recordings, <19:00 - 21:00 p.m.> a recital at Liu Mifune Art Ensemble, <21:00 - 21:30 p.m.> gathering for her autograph, <21:35 - 23:00 p.m.> an additional recital at our hall. With this kind of tight schedule she went through peacefully, only had a salad at lunch and even no water. "It is quite normal of me as a pianist," said Mrs. Slenczynska as if it were nothing particular. Her performing hours of the day correspond to taking Shinkansen express train to and back between Okayama and Tokyo. As we think of her elderly age of seventy-eight, it is amazingly superhuman of her to perform for such a long time without rest.

True sound of the piano - releasing her CDs

Our Steinway 1926 had been already tuned for more than 60 hours by Mr. Toshiya Hironaka before one week of her arrival, especially for the sake of resulting in the best recordings. And Mr. Hironaka always went along with her to keep the best tuning. Mr. Yoshioka and Mr. Ohtani, who were to produce new CDs of Mrs. Yoko Kubo, were responsible for recordings. They recorded all of her performance both on the stage and her exercise for the whole one week. Thus, my dream and responsibilities were fulfilled.
In the evening of November 10 we had a farewell gathering for Mrs. Slenczynska. "All of us are so grateful to you for all what Mrs. Ruth Slenczynska did for us. The only one precious present from our family members to you could be these recordings of your performance. Please publish them as CDs for the piano lovers all over the world," said I to her. She responded, "Because these recordings consist of my performance in Japan, they belong to the Japanese. And you are their owner." Although it is too much work for me to handle, I made up my mind to release her CDs for the sake of Mrs. Slenczynska and those who would like to listen to her at any time.
We held the catchphrase 'Loud applause will soon become the legend," which was not exaggerated at all. Her autograph gathering after her concert in Okayama Symphony Hall lasted for one hour. Enthusiasm of the audience and the crowded hall proved it true. Now, there are two separated groups in Japan; one is those who have listened to her performance, the other those who could not listen to her. Fortunately enough, we belong to the first group. Sincerely I pray for her visit to Japan once again in the near future so that Mrs. Slenczynska could play the true sounds of the piano.


translator  Kiyoko Kruzliak

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